承認年月日:1939(昭和14年)年3月20日
例 会 日:金曜日12:30~13:30
例 会 場:盛岡市盛岡駅前北通2-27
ホテルメトロポリタン盛岡ニューウィング
会 員 数:72名
毎週一回例会へ出席して親睦を重ね、他のロータリアンの良質な言動に接して自己研鑽を重ね、奉仕の心を譲成するところが例会です。
例会では会員、または講師を招いてお話を聴きます。
これを卓話と呼びます。
卓話は、自己の職業を通した専門的な話やビジネスや社会の動向、科学や文化、気の張らない楽しい話も含めて、知識を深め教養を高めるテーマが設定されています。
例会に参加することはロータリアンにとって何ものにも代え難い収穫となります。
戦況が悪化し、翌1940年(昭和15年)には一時解散を余儀なくされましたが、「盛岡木曜会」の名で戦時中も会合を続け、戦後1950年(昭和25年)には国際ロータリーへ復帰をはたしました。
その後、わが国の経済発展とともに当クラブも拡大発展してきました。
1939年(昭和14年)2月23日県公会堂で行われたロータリークラブの発会式での記念撮影
1939
昭和14年
発会
2月23日、岩手県公会堂(盛岡市内丸)にて発会式。当時の新岩手日報(現・岩手日報)はその模様を「奉仕と国際友誼」と見出しを打って伝えた。
3月20日、20人に満たないメンバーで国際ロータリーへの加入申請が特別に認められ、「倶楽部番号4978」でチャーターされた。第70地区(当時の日本・満州)では45番目、東北では3番目に誕生した。日本国内では一番少人数のロータリークラブであった。
1940
昭和15年
時代の重圧 と 国際ロータリーの脱退 そして解散
1939年という時代は、日中戦争の拡大につれて「国際団体」であるというだけで“反戦的”であり“亡国的”である、との誤解や秘密結社であるとみなす軍部による圧迫が表面化。日本と満州だけのロータリークラブとして運営することになった。盛岡ロータリークラブでは、国粋的な感情にとらわれることなく、家族例会には会員16人で100人以上が集うなど、盛況を博した。
しかし、1940(昭和15)年には憲兵隊の監視を受ける事態となり、盛岡ロータリークラブは解散することとなった。
1940年代
昭和15~25年
戦時下の「盛岡木曜会」
詳しい資料は残されていないが、解散後の1940~1950(昭和25)年の間には「盛岡木曜会」と名称を改め、約10年間にわたり途絶えることなく会員相互の交流は保たれたという。
1949
昭和25年
国際ロータリークラブへの復帰
1945年に終戦後、1949年から各地のロータリークラブは国際ロータリークラブから復帰を承認され、盛岡木曜会も1950(昭和25)年6月29日に再び盛岡ロータリークラブに生まれ変わった。
1958
昭和33年
盛岡北ロータリークラブの設立
1958(昭和33)年9月26日、盛岡北ロータリークラブを設立。当時の岩手日報では「350地区ガバナー伊部政次郎氏(函館)から認証状を伝達され、ロータリーソング『我らの生業』を高らかに合唱、万歳を三唱して閉会」したと記されている。
その後、同年12月26日には宮古ロータリークラブも設立した。
1960
昭和35年
佐藤武夫ガバナーの誕生
「創立20周年の歴史を持ち、ベテランクラブといわれる盛岡クラブからぜひガバナーを出して新価を発揮したい」(1960~61年次報告書)と願われていたが、1960(昭和35)年7月に佐藤武夫氏が次期ガバナー・のミニー就任が決定。同年のクリスマスパーティには130人参加したり、家族旅行会の際には盛岡駅から三陸海岸へ“ロータリー列車”が走るという盛況ぶりとなった。
1960~
現在まで
時代とともに
1964(昭和39)年
創立25周年、初めての創立記念行事
1969(昭和44)年
創立30周年 記念式典
1974(昭和49)年
創立35周年 記念例会 石油ショック下の記念例会
1979(昭和54)年
創立40周年 記念式典 あいつぐ重要行事
1984(昭和59)年
創立45周年「式典はおごそかに、祝宴は華やかに」とクラブの見直しと活性化
1985(昭和60)年
姉妹クラブ・リッチモンドロータリークラブとの締結協定
1989(平成元)年
創立50周年 記念式典
1995(平成5)年
南部利昭ガバナー就任。佐藤武夫氏、村井源一氏に次いで29年ぶり3人目そして、再任。
1999(平成9)年
創立60周年 記念式典
2004(平成14)年
創立65周年 記念式典
2009(平成19)年
創立70周年 記念式典
2014(平成24)年
創立75周年 記念式典
2019(平成29)年
創立80周年 記念式典
2024(令和6)年
創立85周年 記念式典